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《NHK:圆的战争》影评精选10篇

2022-05-13 12:39:03 来源:文章吧 阅读:载入中…

《NHK:圆的战争》影评精选10篇

  《NHK:圆的战争》是一部由纪录片 / 历史 / 战争执导,日本主演的一部2011-08-14(日本)类型的电影,文章吧小编精心整理的一些观众的影评,希望对大家能有帮助。

  《NHK:圆的战争》影评(一):小日本的顶层设计还是很牛逼的

  小日本的顶层设计还是很牛逼的,以战养战的核心就一个,在占领区里循环使用应付账款抵押贷。用中国人的丰富资源帮助缺乏资源的日本人更进一步奴役中国人,这画面实在太诡异了。小日本把现代金融玩到这个程度了,设计出这个运行体制的都是天才啊。

  然而最终还是玩不转,崩了。对应了片尾一句话,日本是没有国力与大国打仗的。

  美帝的屁股也不干净,明知道小日本藏有巨额资金在美国,也不立即出手干预。而是继续养奸,等待局势明朗。管你中国战场洪水滔天,那不是美国的事。

  毛更牛,看清楚了你岛国不行,不怕跟你消耗下去。战败了面临还款问题,还有战争赔款。毛竟然说不用还,日本都糊涂了,什么葫芦卖什么药,德国可是一直到孙子辈还在赔爷爷辈的钱。

  有利有弊吧。这样一来,道义上永远站在了最高点,让你没有完成赎罪的行为,让日本人世世代代都欠中国人的,道德上永远矮人一截,太腹黑的赶脚。日本人后来搞的oda贷款可能是有减轻负罪感之意。苦就苦了幸存者,但是恰好是因为没有达成一个赎罪的交易,这种仇就记得特别深,内心里面永远警醒无法忘却。

  前几个月,在美国整合日韩的压力之下,朴政府同意了接受赔款达成对慰安妇问题的和解。受害者可以拿到日本赔款了,但是也意味着韩国交出了一个对日本的道德制高点,以后就不能再提慰安妇问题了,因为你已经收了日本赎买的钱,一笔勾销了。

  《NHK:圆的战争》影评(二):关于国共战争的思考

  看了这部纪录片沉思了许久,媒体宣传国共战争初期,国军总数400w,共军总数150w左右,以此来证明共军的胜利是人民的选择。回头想想国军真正败在经济战中。本片揭示了中日战中日方的巨额开销,而国军呢,因为国军法币是以美元,英镑作为抵押发行的,而成倍增长的军费,使得法币只能和美元脱钩,导致恶性通货膨胀。共军当时一没外币,二没黄金。不过这反而没压力,轻装上阵。共军采用实物做抵押,也就是当年粮食产量发行银元。这个创新的金融创意,一举摆脱了对外部势力和黄金资源的依赖。反之国军因为和日军的消耗战,欠债累累,也因为低估了共军。结果在从日军的解放区中大量使用金圆券,使得当地民心思变。加上共军洗脑传销式推广和陈诚这个笨蛋的愚蠢军事行为。国军大好局面丧失。

  拉回现代,共大量存储美元我觉得未必是错误的,人民币说到底是废纸一张的,中国目前根本没有抵押物作为发行rmb的基础,而且金融体系是受政治摆布的,没有独立的发行权。如果将来发生危机,要维持我裆稳定的必然是这万亿的美元资产!!

  从08年4w亿到现在,通货膨胀已深入社会,这是在考验普通民众的忍耐力啊,一旦膨胀过度,可能就是暴力XX了。别看最近美元贬值的凶,我觉得有点闲钱的 还是要买点外币或者黄金防身。

  《NHK:圆的战争》影评(三):NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし

  ≪NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし≫

  〔NHKスペシャル『圓の戦争』(2011年8月14日放送) より抜粋〕

  66年前の戦争の負の遺産が、思わぬ場所に刻まれていた。東京霞が関の財務省。戦争で使われた膨大な費用の一部が現在(いま)も借入金として記載されている。その額414億円。終戦時の国家予算を超える巨額の借金が何故残されたままなのか・・・・。

  「破綻しますよ、いつかは。いつかは破綻します」(元銀行員)

  国を破滅へと導いていった戦争。日本軍の影に常に存在していた通貨「圓」。知られざる「圓」の戦争を見つめた――。

  昭和6年(1931年)9月、満州事変が勃発。日本の関東軍が、満州と呼ばれた中国東北部を武力で制圧、其処に傀儡国家(実質的に他国の統制下にある国)を作った。計画したのは、関東軍高級参謀の板垣征四郎(1885-1948)大佐。戦後、A級戦犯として死刑となった。そして、作戦主任参謀の石原莞爾(いしわら かんじ 1889-1949)中佐。

  国の不拡大方針を無視して行われた満州事変。現地軍の独走を支えた戦費はどう賄(まかな)われたのか。本来、戦争に必要な費用は国から支給される。しかし、石原中佐には「戦争をもって戦争を養う」という思想があった。戦争に必要な資金や物資を、戦争によって自ら賄っていくというものだった。

  関東軍の現地での資金調達。その実態が初めて浮かび上がってきた。

  東京郊外の住宅街。此処に、関東軍と深い関わりを持つ国策銀行の内部資料があった。当時、日本の植民地だった朝鮮半島に作られた朝鮮銀行。戦争に加担したとして戦後、GHQ=連合国軍総司令部に解体された。

  「これは朝鮮銀行の極秘資料でしてですね、実態とか綴られている重要書類が全部入っています」。戦後、散逸していた資料を集め、研究してきた多田井喜生(たたい よしお 1939-)氏。多田井氏は、朝鮮銀行の資産を引き継いだ日本債権信用銀行で常務を務めた。社史の編纂にも携(たずさ)わり、銀行が日本の戦争にどのように加担したのかを調べてきた。

  朝鮮銀行が関東軍に資金を提供していたことを示す極秘文書。

  「朝鮮銀行券は、朝鮮・満州に留まらず、熱河の聖戦の際にも、軍事支便(軍事の支払い)に多大な便益を与えてきた」

  熱河省での作戦(昭和8年(1933年)の熱河作戦)など満州事変における関東軍の軍事行動を支えたのが、朝鮮銀行の「圓(えん)」だった。

  戦争を支える自らを事変銀行と自負していた朝鮮銀行。しかし関東軍への協力は、しばしば政府の意向を踏まえず独断で行われた。何故そのようなことが可能だったのか。

  当時日本は、異なる3つの「圓(えん)」を発行していた。本土では日本銀行券、植民地の台湾銀行券と朝鮮銀行券、それぞれが同じ価値で交換出来た。万一植民地の経済が悪化した場合、本土から切り離す為に、敢えて別々に「圓」を発行していた。自由に「圓」が発行出来たことが、朝鮮銀行の独断での資金提供を可能にしていた。

  「事変がある度に、朝鮮銀行券というのが、陸軍の軍事面の、軍事支出を支える銀行として、色々な面で活躍していく、と。利用されていく、と。朝鮮銀行券というのは、関東州から更には満鉄付属地、満州全体へと通貨圏を広げてゆくわけです」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

  軍と朝鮮銀行には、朝鮮半島から中国大陸に影響力を拡大するという共通の狙いがあった。朝鮮銀行元総裁の日記である。大蔵大臣を二度務めるなど戦前の経済界の重鎮だった勝田主計(しょうだ かずえ 1869-1948)。満州事変後、陸軍の幹部が毎日のように訪れていた。中国における経済や金融について意見を求められていた。

  「昭和8年(1933年)4月4日、鈴木貞一少佐来る」

  大陸強硬派で陸軍の中国政策に強い影響力を持っていた鈴木貞一(すずき ていいち 1888-1989)中佐。後にA級戦犯として終身刑を受けた。

  「昭和9年(1934年)12月6日、板垣少将来訪」

  満州事変を首謀した板垣少将も訪れていた。

  陸軍の実力者達に自らの経済的な思想を伝えていた勝田元総裁。中国に「圓」の経済圏を作るという壮大な構想があった。満州事変の3年前に書かれた未発表の原稿にこう記されている。

  「経済力の強い国の貨幣が、他の国で使われることはまた、自然な状況である」

  強い通貨こそが経済の弱い国を支配すべきという持論だった。

  日本が傀儡国家・満州国を作った当時、中国には南京に国民政府があったものの地方では軍閥が割拠、それぞれが独自の通貨を発行し、経済はバラバラの状態だった。そこを「圓」で統一し、日本の一大経済圏を作るというのが、勝田元総裁の考えである。しかしそれは、一歩間違えば、経済的な侵略にも繋がりかねない思想だった。

  「勝田(鮮銀総裁)の持っている思想、そういうものは、軍人側にとっては利用し易いもの。軍の大陸侵攻の方向と、朝鮮銀行の『圓』の方向というのは、合致するわけですね」(多田井氏)

  関東軍は更に中国の懐深くへと狙いを定めた。

  昭和10年(1935年)6月、関東軍の参謀達が密かに会合を開いていた。その時の記録が残されていた。終戦時、GHOが押収していた資料である(『第一回関東軍幕僚 経調懇談会記録』)。関東軍参謀副長となっていた板垣少将。その配下にいた田中隆吉(1893-1972)中佐ら4人の参謀達が意見を述べた。

  「軍のほうとしても、差し当って武力によってやることは出来ないから、経済工作によって、北支(ほくし)、中支(ちゅうし)、南支(なんし)とやっていこう。金融的に北支を支配し、国民党政権を倒す」

  関東軍は、国民政府の支配下にあった北支と呼ばれる華北地域を狙っていた。しかし其処には、古くから権益を持つヨーロッパの列強(英・仏・独)や、北から共産主義の拡大を図るソビエトの存在もあった。軍が武力ではなく、政治・経済的な工作を推し進めた。

  昭和10年(1935年)11月、軍は国民政府の不満分子を担ぎ出し、傀儡政府「冀東(きとう)防共自治政府」(1935~1938)を打ち立てる。緊張は俄(にわ)かに高まっていった。日本政府は強い危機感を抱いていた。現地軍の独走や朝鮮銀行の戦費の支払いを政府は追認させられる形になっていた。

  大蔵大臣・高橋是清(たかはし これきよ 1854-1936)。当時、軍事費の増額を求める軍部と激しく対立していた。

  昭和9年(1934年)、5相会議での発言「軍事予算の膨張は、いたずらに外国の警戒心を刺激し国民経済の均衡を破ることになる」

  高橋蔵相は現地軍と結び付いていた朝鮮銀行から、通貨の発行権を取り上げることも視野に入れていた。

  昭和10年(1935年)2月、衆議院第67回議会での発言「今まで朝鮮銀行が国家に迷惑を掛けた原因は、発行権がある為、金が自由になり過ぎる点にある。朝鮮銀行に『圓』を発行させず、日銀券に統一したい」

  金融経済界にはこうした考えを支持する人達がいた。かつて高橋蔵相が頭取を務めていた横浜正金銀行。日銀と共に日本を代表する銀行として国際金融を一手に担っていた。国際協調を重視する金融のエリート達だった(昭和2年(1927年)、未モルガン商会総裁と正金幹部の写真)。

  その1人、昭和10年(1935年)に横浜正金銀行に入行した小原正弘氏(1912-)、99歳。京都帝国大学出身の小原氏は、国際的な市場で活躍したいと、正金銀行を選んだ。入社時の名簿が残されていた(昭和10年(1935年)4月、横浜正金銀行『人事週報』)。当時、社内では軍の大陸での行動に懸念が広がり始めていたと言う。

  「僕ら普通のものには(あの時代は)暗かったね。嫌な空気でしたよ、今思えば」

  翌年、昭和11(1936年)年2月26日、二・二六事件が勃発。陸軍の青年将校が、高橋蔵相ら重臣達を暗殺した。その日、小原氏は正金銀行の本店で事件の一報を聞いた。

  「これはえらいことになったな、何でああいう人を殺したのかと思いましたね。ああいう人がいないとね、陸軍、あの当時は軍って言ってたけど、軍の思うようになっちゃうんじゃないかということを考えましたね」

  軍部と対峙し、軍事費を抑えていた高橋是清。もはや止める者は誰もいなかった。

  二・二六事件の翌年、昭和12(1937年)年7月、日中戦争が勃発。日本軍の侵攻と共に一大経済圏を作る為の「圓」の戦争が本格化していく。華北に展開する第5師団の板垣中将、そして、関東軍の東條英機(1884-1948)中将。2人は満州国に隣接する地域に進軍、3つの傀儡政権が作られた。

  関東軍の極秘文書に、関東軍の東條中将がこの時に出した通貨に関する指示が残されていた。

  「幣制及び金融機構の一元的統一、研究を進むべし」

  傀儡政権に「圓」の影響力を広げるよう指示していた。

  現地軍の意向を受けて、朝鮮銀行員は前線深くまで従軍してゆく。リュックに大量の朝鮮銀行券を詰めて同行。占領と共に現地に出張所を開設していった。朝鮮銀行員は、現地の通貨を回収し、「圓」への切り替えを図った。しかし、外国の通貨への反発は想像よりも強く、朝鮮銀行券は浸透しなかった。

  そこで、日本軍は朝鮮銀行券に代わる新たな「圓」を作り出す。

  昭和12年(1937年)12月、華北を占領した日本軍が打ち立てた傀儡政権・中華民国臨時政府(1937~1940)。この傀儡政権が発行した中国聯合準備銀行券。この連銀券には、人々に受け入れられるよう、“中國”という文字が入っていた。

  聯銀券を浸透させる為、強引な手法が取られていた。戦時中の日本に纏(まつ)わる資料が大量に保管されている北京市档案館(とうあんかん)。日本の傀儡政権・中華民国臨時政府の資料が初めて公開された。

  「聯銀券を使わなかった市民は、最高で無期懲役」という厳しい罰を科せられていた。

  日本側の資料も残っていた。東京目黒にある防衛省防衛研究所。陸軍省経理局の極秘資料。強制的に聯銀券を使わせる為の方策が講じられていた(陸軍省経理局『聯銀券価値向上並びに流通強化策』)。

  小麦粉や石油などの必要物資を聯銀券でしか買えないようにしていた。更にアヘンという記述。当時中国には、麻薬であるアヘンの中毒者が溢れていた。中毒者に対しても、アヘンを連銀券で売るよう指示していた。

  日本軍は華北を抑えたものの、あくまで点と点に過ぎなかった。周辺ではゲリラ戦が頻発し、戦争は長期戦の様相を呈していた。現地では膨らみ続ける戦費を賄(まかな)う為の手段が求められていた。聯銀券を利用して資金を生み出す“或るカラクリ”が編み出された。

  朝鮮銀行の極秘資料の研究を続けてきた多田井喜生氏。多田井が収集した資料の中に、聞き慣れない言葉があった。

  「中国聯合準備銀行との『預ヶ合』契約で調達する」

  この「預ヶ合」という仕組みに鍵があった。

  それまで華北では、朝鮮銀行が現地軍に、自ら発行する「圓」を戦費として渡していた。その戦費は国の臨時軍事費特別会計から賄われた。しかし、その額は急激に膨らんでいた。

  (ニュース映画『支那事変国債』より)「今回の支那事変における戦費の大部分は、国債を発行して我々国民からお金を借りるという方法を取るのです。・・・・」

  政府が戦時国債の購入を呼び掛けるニュース映画。戦費の大部分は国民からの借金で賄(まかな)っていたが、そのことが国の経済を脅かしていた。

  朝鮮銀行が編み出した「預ヶ合」。傀儡銀行(中国聯合準備銀行)に無制限に金を発行させる方法だった。通貨は何の裏打ちもなく発行出来ない。朝鮮銀行が傀儡銀行と「預ヶ合」契約を結ぶ。日本から送金された「圓」を裏打ちとして、傀儡銀行が通貨を発行し、現地軍に渡す。そして、日本の軍事費に借金として計上される。

  しかし裏打ちであるこの「圓」を、傀儡銀行は引き出すことは出来ず、国庫に戻される。日本の懐を痛めることなく、無尽蔵に生み出される戦費。それは戦争のツケを将来に先送りしているに過ぎなかった。

  預け合いによって膨大な聯銀券が溢れ、占領地の経済は混乱した。華北における聯銀券。そして蒙彊(もうきょう)地域にも新たな通貨・蒙彊銀行券を作り、「圓」の戦争を拡大する日本軍。しかし水面下では、中国が対抗する動きを見せていた。

  当時、日本の傀儡銀行には多くの日本人が出向させられていた。横浜正金銀行の小原正弘氏。昭和14年(1939年)、中国聯合準備銀行へ出向したが、小原氏が目の当りにしたのは、日本の「圓」の脆さだった。

  「日本軍のね、日本政府のバックにあるお札が出回っていて、それが日が暮れると法幣(中国の通貨「元」)の世界だという風なことを言われましたけど、武力で押し切っていられるうちは保つでしょう、表面的には。でも、それが弱ってきたら値打ちはガタ減りでしょうねぇ」

  日本の占領地で広がっていたのが、中国の「元」だった。中国国民政府を率いていた蔣 介石(蔣 中正 1887-1975)は日中戦争が始まる前に“或る政策”を打ち出した。国民党本部に保管される、蔣 介石の公務を記した日記(昭和14年(1939年)『抗戦与建国』)。

  「昭和10年(1935年)年11月4日、全国で新貨幣制度を実施」

  蔣 介石は、「法幣」とも呼ばれる「元」を生み出した。国民政府の他に共産党など数々の軍閥が割拠し、それぞれが通貨を発行していた中国。通貨の種類は1000を超えていた。そこに登場したのが、統一通貨「元」。蔣 介石にとって、「元」は中国を1つに束ねると同時に、日本と対峙してゆく有力な手段となった。

  「『元』は蔣 介石にとって、抗日戦に打って出る重要な要素となりました。『元』は武器よりも強い殺傷力があったかも知れない。経済的基盤が無ければ勝てないからです」(台湾国史館研究員・卓 遵宏氏)

  新たに誕生した「元」の背後に、中国に権益を持つイギリスやアメリカの存在もあった。昭和12年(1937年)、上海の金融街。日本軍の侵攻を食い止める為、イギリスとアメリカは多額のドルとポンドを提供して「元」の価値を支えていた。欧米の支援を受け、「元」は瞬(またた)く間に中国全土に浸透した。

  「もし日本との戦いが『元』誕生より前に発生したならば、中国は早く敗れ、或いは既に恥を忍んで和平を求めていたかも知れない。現在は幸いにして『元』が存在し、これによって極めて厳しい局面でも長期戦の基礎を固めることが出来る」(昭和14年(1939年)『抗戦与建国』)

  日本と中国の戦争は泥沼化していった。

  「圓」の戦争は、その舞台を更に広げていった。その実態を示す資料が見つかった。ダンボール700箱にも及ぶ膨大な資料である。世界20カ国に支店を持ち、日本の国際金融を一手に扱ってきた、あの横浜正金銀行。中でも重要な資料が『頭取席要録』。世界中に散らばった金融のエリート達が、国際情勢をつぶさに分析・報告していた。

  「日本の公債や株式が、日本軍の軍事行動によって下落している」と報告したロンドン(ロンドン支店)からの情報。アメリカに支援を求める中国の財政使節団の動きを詳細に調べたニューヨーク(横浜正金銀行ニューヨーク支店)からの情報。その中に、大蔵省や日銀が、アメリカに密かに純金(金塊)を送ったという情報が頻繁に登場する(横浜正金銀行サンフランシスコ支店へ)。

  何故、大量の純金(金塊)を送っていたのか。

  日中戦争が始まってから1年が過ぎ、軍事費は増大の一途を辿っていた。軍中央では、日中戦争勃発時現地で指揮を執った板垣征四郎(1885-1948)中将が陸軍大臣、東條英機(1884-1948)中将が陸軍次官に就任していた。最大で100万を超す兵力を送っていた陸軍。軍事費は遂に国家予算の7割を超えた。

  (日本の国家予算に占める軍事費の割合は、昭和11年(1936年):47.7%、昭和12年(1937年):69%、昭和13年(1938年):76.8%)

  日本は戦争に必要な石油や鉄などの戦略物資を海外に依存していた。その獲得に狩り出されていたのが、横浜正金銀行の金融エリート達。この時使われたのが、純金(金塊)だった。

  昭和14年(1939年)に横浜正金銀行に入行した寺井弘治氏、89歳。大阪支店で為替業務に携(たずさ)わっていた寺井氏は、或る日、厳重な警備の下、何十もの木箱をアメリカに送るよう言われた。

  「何かなぁと聞きますと、大事な金塊をニューヨークに送るので、全くシークレット・マター Secret Matter(極秘事項)だ、と。極秘の極秘で。何で送るんですかと聞いたら、『決済資金が無いから、純金(金塊)で決済するんや』って」

  日本からアメリカに密かに送られていた純金(金塊)。日本はこの時期、輸入品を決済する代価・ドルさえ不足していた。アメリカは、石油などの戦略物資に、最大の輸入相手国だった。その戦略物資を輸入する為、政府や日銀が保有している純金(金塊)を切り崩す異常事態に陥(おちい)っていたのである。

  一方、アメリカは日中戦争が始まって以降、日本への不信感を強めていた。日本の資金力を密かに分析していたことが明らかになった。アメリカ国立公文書館。近年公開が始まったアメリカ財務省とFRB・ニューヨーク連邦準備銀行の内部資料。

  「こちらが1930年代から40年代の財務省の記録です」(アメリカ国立公文書館 女性職員)

  日中戦争勃発から半年後の、米財務省の極秘資料である(昭和12年(1937年)12月 米財務省の内部文書)。

  「5月半ばに金塊が送られている。日本の銀行に残高は殆んど無い」

  純金(金塊)に手をつけざるを得ない日本の厳しい状況(日本銀行の状態や日本の外貨準備量)をつかんでいたアメリカ。戦争を継続させることは難しいと見ていた。

  大手企業の財務部門のトップを歴任し、アメリカ海軍大学で戦史を教えていたエドワード・ミラー Edward S. Miller(1930-)氏。経済という新たな視点から、日米開戦の要因を探ってきた。

  「誰もが、日本はあと1年か2年で財産を使い果たして破綻するだろう、金融の専門家達は確信していました。日本は支払不能になって、中国との戦争をやめるはずだと。アメリカはそれを待っていたのです」

  ところが、そのアメリカも気付かなかった資金の動きが発覚した。

  横浜正金銀行ニューヨーク支店。昭和15年(1940年)8月、突如、横浜正金銀行の口座で1200万ドルもの金が動いていたことが分かった(昭和15年(1940年)8月3日のFRBの調査報告書)。FRBは、3週間にわたって密かに調査を続けた。

  「日本に外貨を貯める動きがある。それは横浜正金銀行ニューヨーク支店の“隠し口座”にある」(同年8月27日のFRBの調査報告書)

  日本がアメリカに送っていた純金(金塊)。売る時の相場によって差額が生じる。その差額は正金銀行ニューヨーク支店の“隠し口座”に貯められていた。その額は2年半で1億4000万ドル。戦争継続に欠かせない石油3年分を賄(まかな)える額だった。正金銀行はアメリカへの報告義務に従わず多額のドルを貯めていたのである。

  「アメリカは日本が1億ドル以上のカネを持っていることを知ったのです。FRB(ニューヨーク連邦準備銀行)から僅か数ブロック、目と鼻の先に隠していたのです。それは大きな衝撃でした。日本が中国との戦争を長期間続けることが出来るのですから」(エドワード・ミラー氏)

  アメリカは急遽、日本資産の凍結を検討し始めた。その矢先、日本がドイツやイタリアと三国同盟を結び(昭和15年(1940年)9月、日独伊三国同盟成立)、日米関係は悪化。

  昭和16年(1941年)1月、横浜正金銀行『頭取席要録』。横浜正金銀行はアメリカによる資産凍結を回避する為、第三国への資金の移転を検討していた。

  「Banco do Brasil(ブラジル銀行)」

  「ニューヨークへ置いておくと、将来戦争になった時に資金が凍結されるんじゃないか、と。もう第三国へ振り替える、付け替えて、そちらへプールしておくと」(元横浜正金銀行・寺井弘治氏)

  昭和16年(1941年)7月、日本が蔣 介石への支援ルートを断ち、南方進出の拠点とする為、フランス領だったインドシナ南部に進駐。アメリカは即座に日本資産の凍結に踏み切った(昭和16年(1941年)7月、在未日本資産凍結)。その背景にあったのは、日本が多額のドル資金を隠し持っていたことに対するアメリカの強い不信感だった。

  中国での戦争を続ける為の資金調達の動きが、日米開戦へと繋がっていた。

  昭和16年(1941年)12月、真珠湾攻撃。日本軍はアメリカとの全面戦争に突入した。欧米から資金や戦略物資を調達し、それによって戦争を賄(まかな)ってきた日本。孤立した日本に、もはや頼れる国は無かった。

  内閣総理大臣・東條英機大将「我らはあくまで、最後の勝利は祖国日本にあることを確信し、如何なる困難も障害も克服して進まなければなりません」

  太平洋戦争。それは軍による更なる「圓」の戦争の始まりだった。日中戦争勃発時に33億円だった戦費。昭和19年(1944年)には740億円にまで達した。国家予算の8割を超える額だった。

  (日本の国家予算に占める軍事費の割合は、昭和11年(1936年):47.7%、昭和12年(1937年):69%、昭和13年(1938年):76.8%、昭和14年(1939年):73.4%、昭和15年(1940年):72.5%、昭和16年(1941年):75.7%、昭和17年(1942年):77%、昭和18年(1943年):78.5%、昭和19年(1944年):85.5%)

  昭和18年(1943年)3月、東条内閣は“或る決定”を下す。旧大蔵省に残されていた極秘通達。

  「大陸の戦線で生じる戦費は、全て現地の銀行に『預ヶ合』で調達させる」

  かつて華北で朝鮮銀行が編み出した錬金術「預ヶ合」。「戦争をもって戦争を養う」という現地軍のやり方が国家方針となった。華北が朝鮮銀行、華中・華南は横浜正金銀行(上海支店)、そして東南アジアは、太平洋戦争開戦後に作られた南方開発金庫が担わされた。

  国際協調を掲げてきた横浜正金銀行は、国の方針によって「預ヶ合」に加担することになった。南京で日本が作った傀儡政権の新たな通貨・儲備(ちょび)銀券。日本軍が国民政府と激しく鬩(せめ)ぎ合っていた華中と華南で使われた。正金銀行は、傀儡銀行(中央儲備銀行)と「預ヶ合」契約を結び、膨大な儲備銀券を発行した。戦争中、「預ヶ合」で最も多額の戦費を担わされたのが、正金銀行だった。

  これまで「預ヶ合」について記した日本側の資料は残されていなかった。しかし今回、或る陸軍少将の手記の存在が明らかになった。上海に展開した第13軍の経理部長を務めた原田佐次郎(-)陸軍少将。手記には、当時、中国の展開した100万もの兵力をどう維持していたのか、内実が記されていた。

  「横浜正金銀行を通じ、儲備銀行と相談して、極秘のうちに儲備銀券を軍の手で印刷した。戦時中に中国からどのくらいの戦時物資を調達していたかを暴露したら、その天文学的数字に度肝を抜かれるに違いない」

  正金銀行が終戦までに「預ヶ合」によって生み出した金は、2800億円を超えた。日中戦争が始まった時の国家予算の実に60倍だった。

  当時、日本の傀儡銀行(中国聯合準備銀行)に出向していた小原正弘氏。「預ヶ合」はあくまでその場しのぎに過ぎず、戦争が終れば全て日本の借金として重く圧(の)し掛かってくると分かっていた。

  「いつまでこんなことを続けるのかと思った。増えてゆくのは間違いないんだからね、金額は。このまま続けていったらどうなるんだろう、と。(インタビュア「どこかで破綻しますよね?」)破綻しますよ、いつかは。いつかは破綻します、それは」(元横浜正金銀行行員・小原正弘氏)

  占領地の経済はかつてない状況に追い込まれた。儲備(ちょび)銀券を発行すれば発行するほど、その価値は紙切れ同然になっていった。上海では、日中戦争勃発時の3万倍というハイパーインフレ。米など生きていくのに必要な物資さえ買えなくなったと言う。

  当時、上海で暮していた93歳の男性。その時の記憶が生々しく残っている。

  「日本の傀儡政権がこんな金を作ったことが問題だったんだ。上海では暮らしていけませんよ。1日に物価が3倍になるのですから。どれだけの人が飢えに苦しんだか。20歳の若者も餓死したんだ」

  戦争末期には「圓」だけに留まらず、東南アジアから持ち込まれた通貨や「軍用手票(軍票)」と呼ばれる軍用通貨、様々な紙幣が日本軍によって中国各地にばら撒かれていった。

  昭和20年(1945年)3月、横浜正金銀行『頭取席要録』。正金銀行の中枢にも、現地の混乱は報告されていた。

  「通貨の単位はもう既に人々の計算出来る桁数を超え、人々が日本の通貨の受け入れ拒否を起こす可能性がある。インフレは激化し、公衆は貯蓄心を放棄、勤労を嫌悪、道徳は退廃し、秩序が崩壊」

  日中戦争から終戦までの8年間、戦費は分かっているだけで7559億円、現在の価値で300兆円を超える。少なくともその4割が「預ヶ合」によって賄(まかな)われていた。現地から収奪した金で戦争が続けられ、更に多くの兵士や民間人の命が奪われていった。それでも軍部は、終戦間際まで「本土決戦」を叫び、経済的な破綻からは目を背け続けた。

  戦争を様々な形で支えた国策銀行。朝鮮銀行は軍と共に中国大陸に進出し、「預ヶ合」という錬金術を編み出した。

  「日本が大国を相手に戦争をする、そんなことは不可能だったと思いますね。この仕組み(預ヶ合)があったと言うか、この仕組みを作ったからあれだけ戦争を継続出来た、と」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

  横浜正金銀行は、経済原理に反すると知りながら戦争に加担していった。

  「北支(ほくし)では聯合準備銀行、蒙彊(もうきょう)では蒙彊銀行、中支(ちゅうし)では儲備銀行。あんなもの拵(こしら)えてやったのは、軍に協力したということの一言に尽きますね・・・・。ああいうことを軍が言い出して、それにやっぱり流れに乗ってやっていくということは、やはり勇気が、今思えば勇気が無かったということでしょうねぇ。残念だけど、事実はそうだったと思いますよ」(元横浜正金銀行行員・小原正弘氏)

  終戦から66年。日本の「圓」の戦争は人々の記憶から忘れ去られた。しかし国の一般会計には、現在(いま)も「預ヶ合」による戦費の一部が積み残されている。

  「旧臨時軍事費借入金 414億円(41,421,961,000円)」

  戦費調達を担った銀行は消滅、借入金はそのままになっている。消すことの出来ない日本の戦争の刻印である。

  〔資料〕横浜正金銀行 - Wikipedia

  〔資料〕横浜正金銀行資料マイクロフィルム 第1~4期解題 By 東京大学 武田晴人

  〔資料〕横浜正金銀行資料 第1~3期 資料目録 By 東京大学

  〔資料〕インドシナ銀行名義で横浜正金銀行に開設された諸勘定に関する問題の解決に関する日本国政府とフランス共和国政府との間の議定書 昭和32年3月27日 岸 信介とアルマン・ベラールが東京で署名(PDF、全3頁)

  〔資料〕金本位制下の在外正貨 By 斉藤寿彦 1981年(PDF、全65頁)

  〔資料〕幕末・維新期の日本経済と貨幣・金融~横浜正金銀行前史~ By 菊地道男(PDF、全19頁) ※第1表から第5表を参照

  〔資料〕日本資本主義の形成過程と横浜正金銀行 By 菊地道男(PDF、全37頁) ※第1表から第17表を参照

  〔資料〕日本資本主義の確立と横浜正金銀行の経営制度 By 菊地道男(PDF、全31頁) ※第1表から第10表を参照

  〔資料〕日本資本主義の確立と横浜正金銀行の対外業務 By 菊地道男(PDF、全20頁) ※第1表から第10表を参照

  〔資料〕日本資本主義の発展と横浜正金銀行の経営制度 By 菊地道男(PDF、全32頁) ※第1表から第10表及び第1図を参照

  〔資料〕日本資本主義の発展と横浜正金銀行の対外業務 By 菊地道男(PDF、全39頁) ※第1表から第20表を参照

  〔資料〕日本資本主義の帝国主義化と横浜正金銀行の経営制度 By 菊地道男(PDF、全29頁) ※第1表から第8表及び第1図を参照

  〔資料〕日本資本主義の帝国主義的発展と横浜正金銀行の経営制度 By 菊地道男(PDF、全32頁) ※第1表から第7表を参照

  〔資料〕日本資本主義の帝国主義的発展と横浜正金銀行の対外業務 By 菊地道男(PDF、全39頁) ※第1表から第20表を参照

  〔資料〕日中戦争期に至る朝鮮銀行と横浜正金銀行 By 菊地道男(PDF、全20頁) ※第1表から第5表を参照

  〔資料〕日本資本主義の沈滞・危機と横浜正金銀行の経営制度 By 菊地道男(PDF、全14頁) ※第1表から第5表を参照

  〔資料〕日本資本主義の沈滞・危機と横浜正金銀行の対外業務 By 菊地道男(PDF、全34頁) ※第1表から第24表を参照

  〔資料〕円ブロックの形成・拡大と横浜正金銀行の経営制度 By 菊地道男(PDF、全15頁) ※第1表から第5表を参照

  〔資料〕太平洋戦争期の横浜正金銀行 By 菊地道男(PDF、全27頁) ※第1表から第9表を参照

  〔資料〕日本の戦後処理と横浜正金銀行 By 菊地道男(PDF、全27頁) ※第1表から第7表を参照

  〔資料〕日本資本主義確立期における償金取寄論争 By 梅津和郎 1962年11月(PDF、全10頁) ※4頁から預ヶ合勘定について書かれている

  〔資料〕満洲中央銀行と朝鮮銀行 By 安冨 歩(PDF、全32頁)

  〔資料〕満洲中央銀行の資金創出・資金投入メカニズム By 安冨 歩(PDF、全45頁)

  〔資料〕旧臨時軍事費特別会計歳入歳出整理額計算書(PDF、全1頁)

  〔資料〕板垣征四郎(1885-1948) - Wikipedia

  〔資料〕石原莞爾(いしわら かんじ 1889-1949) - Wikipedia

  〔資料〕朝鮮銀行 - Wikipedia

  〔資料〕勝田主計(1869-1948) - Wikipedia

  〔資料〕鈴木貞一(1888-1989) - Wikipedia

  〔資料〕田中隆吉(1893-1972) - Wikipedia

  〔資料〕冀東防共自治政府(1935~1938) - Wikipedia

  〔資料〕高橋是清(1854-1936) - Wikipedia

  〔資料〕中華民国臨時政府(1937~1940) - Wikipedia

  〔資料〕中国聯合準備銀行 - Wikipedia

  〔資料〕北京市档案信息网(北京市档案館のウェブサイト)

  〔資料〕東條英機(1884-1948) - Wikipedia

  〔資料〕「支那事変国債」売り出し宣伝ポスター - 『写真週報』 にみる昭和の世相

  〔資料〕貯蓄奨励ポスター - 『写真週報』 にみる昭和の世相

  〔資料〕公的年金制度における年金記録管理問題の歴史的経緯 By 密田逸郎 2008年9月(PDF、全15頁) ※「厚生年金」は戦費調達、「国民年金」は財政投融資による長期年金資金の活用を目的としたもの

  〔資料〕年金積立金は、本当はいくら残っているのか? - 学習院大学教授・鈴木 亘のブログ(社会保障改革の経済学) 2012年3月29日

  〔資料〕蔣 介石(蔣 中正 1887-1975) - Wikipedia

  〔資料〕Edward S. Miller(1930-) Collection - U.S. Naval War College

  〔資料〕ブラジル銀行 Banco do Brasil - Wikipedia ※1808年設立

  〔資料〕南方開発金庫 - Wikipedia

  〔資料〕中央儲備銀行 - Wikipedia

  〔資料〕阿片中央銀行“蒙彊銀行” - 虚空界摩訶不思議 by heibay 2012年2月3日

  〔資料〕戦後秘史/伏せられ続けた日本帝国軍の中国「阿片戦略」の詳報 By 木村愛二 - 木村書店

  〔資料〕小泉進次郎(小泉Jr.)のCSISペーパーを読む - ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 2006年10月19日 ※麻薬利権、天然ガス、安倍夫妻

  ※日経・CSISバーチャル・シンクタンク―小泉進次郎(CSISエージェント)、日経・CSISバーチャル・シンクタンクはCIAや連邦準備制度理事会(FRS)と繋がっている。前原誠司政調会長はじめ松下政経塾も名を連ねる新自由主義者達の巣窟

  〔資料〕軍用手票(軍票) - Wikipedia

  〔資料〕大東亜戦争軍票 - Wikipedia

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  〔資料〕≪広瀬 隆 著『地球のゆくえ』 第3章 細川政権誕生の謎、他 より抜粋(7)≫|MelancholiaⅠ ※真珠湾攻撃の真実

  〔資料〕『Chicago Tribune』紙がスクープした米国の第2次世界大戦参戦計画(AWPD-1計画)の全貌

  〔資料〕駐日大使グリューの国務省宛ての公電報(日本語翻訳) - ねずきちのひとりごと 2010年1月30日

  〔資料〕711.94/1935:Telegram The Ambassador in Japan.(Grew)to the Secretary of State 1941年1月27日東京(PDF、全150頁中133頁) ※59.2MB

  〔資料〕日本人が知らないニッポン - THINKER

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  〔資料〕NHKスペシャル『圓の戦争』(2011年8月14日放送)

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