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人間失格的读后感10篇

2018-01-12 21:40:02 来源:文章吧 阅读:载入中…

人間失格的读后感10篇

  《人間失格》是一本由太宰 治著作,集英社出版的文庫图书,本书定价:270 (税込),页数:212,文章吧小编精心整理的一些读者的读后感,希望对大家能有帮助

  《人間失格》读后感(一):近代の日本人の死生観について

  分享一篇本人的小作业,阅毕相信人间失格中的内容能很好理解

  小型报告介绍:起源于和日本外教的一次闲聊,发现日本人的生死观真的很特别,最初挺抗拒,后觉得值得研究,因在大陆学界对于日本人的生死观是个空白,便在空闲时间写下这篇小型报告,完成与大三上学期,当时日语水平有限,或许有各种文法错误或理解不正确,望海涵。已发表与本人校内杂志,抄袭无用。

  近代の日本人の死生観について

  日本は切腹の国として海外に知られている。自殺した有名作家も多い。そして、現在、日本人の自殺は、異常なほどの数に上っている。その原因は、彼らの死生観と深い関係があると思う。つまり日本人の死生観を調べれば、それを窺い知ることができる。

  桜と武士に含まれた死生観について

  日本人の死生観を考察する際、必ず挙げられる事柄は桜と武士である。昔から、日本には「花は桜木、人は武士」ということわざがあった。

  桜は、常なる理想世界の現世における具現である。つまり、その無常をもっとも鮮やかに人びとに思い至らしめるものなのである。人びとは、桜が散ることのなかに、この世の無常が映し出されるのを観た。人生も、咲いたと思うとすぐに散っていってしまう桜の花のようであり、はかないものであるという人々の嘆きがこの諺にも見られる。

  武士道について考えるとき、武士は常に死の覚悟を持たなければならず、また、このような死生観は武士としての必須要素であったに違いないということに気がつく。故に、「いさぎよく死ぬべし」という死に対する考えは、武士道の核心になっている。

  そして、武士にとっての、ふわふわ風に乗って落ちていく儚い美しさは、桜の魅力に相通じるものがあると考えられるであろう。この美しさは武士とふさわしい。実は、武士道とは死を見つける道であると言える。

  「叶隐闻书」の作者山本常朝さんは「武士道と言えば、死亡を見ぬくことである。武士は死と生を選ぶ時、死は最優先の選択である。しかも、その理由はない。」と述べている。 潔い桜が完璧に咲いた後、悔いもなく、風に乗って、散っている風景は武士にとって、もっとも理想的な死の画面である。

  それは、桜と武士の死の美学である。               

  作家たちの自殺の謎について

  北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、牧野信一、太宰治、田中光英、三島由紀夫、川端康成など、これは自殺を選んだ作家たちと言われる。何ゆえに、日本の作家はそれほど自殺にほれ込むのか。日本の作家の多くがその作品の中で、死を描いている。その原因は、昔から、多くの日本人が、死を美しいものと考えていたことに由来するのであろうか。

  自殺はその美しさを見つめる方法ともいえる。である。

  川端康成は、かつて、世界の物事で、死と生ははかないものであり、生は死のスタート、死は生のはじめ、よって、死は完璧なもの、気高い芸術であると述べた。彼のように、死の中に、生を見つけることを好む作家が多いのではないか。 そうでなければ、「自殺死」の作家がこんなに多いはずがない。世の中のすべてのものが、はかないものと思われる作家たちにとって、自殺によって、人生の美しさを昇華することは、すこしも不思議なことではない。

  この現象は民族の伝統と文化がかかわっている。と言えるだろう。

  二戦中の日本人の死生観について

  日露戦争後、日本軍隊の自信はますます強固なものとなってきていた。軍事で世界制覇の野望をいだいた帝国軍隊が太平洋戦争に突入したその時、軍人にとって、天皇は神ようである。神に「忠」を示すことは軍人のサダメであろう。 

  第2次世界大戦末期、日本軍隊は太平洋戦争のさ中に、神風特攻隊をつくっていた。この特別の軍隊軍官は「忠」を示すために、若い特攻隊員を命令して、無理やり彼たちを飛行機を操縦させ、死をもってアメリカの軍艦を攻撃させた。神道と天皇を疑いもなく信じていた一部の極端な帝国軍官にとって、死は怖いことではない。儚い美しささえある。しかも、同時に、「忠」を示せる絶好の機会ようである。当時20歳前後だった特攻隊員の多くは、家族恋人への親愛の情と、死のあいだで葛藤していたようである。でも、あの時の背景で、死を選択なければならない。

  帝国軍官たちの考えは、武士のと似ている。昔は、武士は藩主のため、命さえも捨てられる。軍官は「忠」を示すために、特攻隊員に自殺攻撃を命令することも、大体、同じである。

  だから、神風特攻隊をつくった原因も武士道と深くかかわっている。

  戦後の死生観について  

  60年代後半から、日本は高度経済成長時期であった。この間、経済成長のおかげで、国民の生活はますますよくなり、豊かな生活が過ごせるようになった。一方、お金持ちになった国民の心はだんだん満たされなくなってしまった。80年代後半、「バブル」が崩壊され、日本経済は長期にわたり、景気低迷状態が続いていた。年齢層にかかわらず、人々は日々の生活で、大きな圧力がたまっていた。サラリーマンたちも会社の業績が悪くなるにつれ、残業ばかりし、首の恐れもありうるし、数十年ものローンを背負うしで、心理的圧力はもう限界にきていた。 一方、学生たちは進学のために、幼児園からずっと必死に勉強していて、遊び時間もなくなり、社会の影響も受けて、学校ではいじめの問題も深刻になってきた。

  だから、今は、日本人の死生観は妙に変わってきたと考えられる。死は圧力とつらさの中から、逃げられる方法になってしまった。

  厚生省の資料によると、90年代から、日本人の自殺率は急に増えてきたという。多くの首になった50代のサラリーマンたちは自殺を選んだ。いじめで自殺をした学生の事件も驚く数にのぼっていた。彼らの考えは、死は「苦しい世界」から逃れられる唯一の方法ようである。

  生きていくのはつら過ぎるので、死を選ぶ。しかも、自殺は単純な、逃避の方法だけではなく、それは彼らの最後の武器になってしまった。ネットの資料によれば、JR線での人身事故は1か月平均2件あるそうである。自殺の方は社会に大きな迷惑をあたえ、人々の心にも無言の衝撃を打っていた。

  いじめの原因で自殺した生徒も増え、なかには、その遺書に自分をいじめた人の名前を書き残したという事件もある。そのようなことは死が社会に 最後の極端な反撃を加える手段になったということなのではないだろうか。重すぎる圧力の中で、一部の日本人の死生観はもう変わっていたようである。

  結論            

  すなわち、現在、大部分の若い日本人は、桜と武士の死生観はほとんど知らないが心の奥には、必ず、桜と武士の死生観があるはずである。だから、ほかの国と比べ、自殺もそんなにタブーではなくて、死の美学に憧れも残っているようである。

  まとめといえば、昔、日本人の自殺は外部のものため、死を選ぶ。自分のため、死を選ぶことは少ないである。たとえば、武士の主な自殺原因は藩主に「忠」を示すためとか、敗戦の責任をとるためとか、名を守るためようである。軍人は戦争のため、生きるの権力をあきらめた。それは、武士道と深くかかわれている。

  なお、日本人も死の美しさが追い求める。前文と書いたと同じ、作家は「美学」を実現するため、人生の美しさを昇華するため、死を選択する。切腹も死の美しさをあらわすため、作られたようである。この現象は日本人が桜におぼれていると関係があると思う。桜の一番美しい時は散らしていると言われている。その原因で、日本人は桜のようにはかない散らしている死亡方式をほれ込むようである。

  でも、現代の死生観はもう大きく変わってきたそうである。自殺の原因も、昔のように国のため、尊厳を保つためと、このようなことではなく、健康問題やストレスが現代人の自殺のもっとも大きな原因になった。しかも、死は死者の乱暴な反撃手段になってしまった。確かに、この妙な死生観は真剣に考えなければならない。

  実は、このレポートを書くなかで、日本人の死生観は決して、そんなに簡単なものではないということがわかってきた。日本人の死生観は複雑だと思う。詳しく研究すれば、もっと各方面を調べなければならない。

  最後に、私は言いたい。

  人間は唯ひとつの命しかもたない。それぞれが、与えられたいのちを大切にしないではいけない。

  参考文献:

  《暧昧的日本人》 李兆忠

  「平成10年の全国の自殺の現象」 厚生省

  「死の存在論」高橋英夫

  《人間失格》读后感(二):『人間失格』日文原版

  はしがき

  私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

  一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹《いとこ》たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴《はかま》をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、

  「可愛い坊ちゃんですね」

  といい加減なお世辞を言っても、まんざら空《から》お世辞に聞えないくらいの、謂《い》わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、

  「なんて、いやな子供だ」

  と頗《すこぶ》る不快そうに呟《つぶや》き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。

  まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺《しわ》を寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。

  第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌《へんぼう》していた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗《のぞ》かせ、籐椅子《とういす》に腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命《いのち》の渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。

  もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎《あご》も、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である。漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快、イライラして、つい眼をそむけたくなる。

  所謂《いわゆる》「死相」というものにだって、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。

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  第一の手記

  恥の多い生涯を送って来ました。

  自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜《あかぬ》けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

  また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。

  自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

  また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。

  自分だって、それは勿論《もちろん》、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。

  自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳《ぜん》を二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔|気質《かたぎ》の家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛《か》みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。

  めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋《かいじゅう》で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

  つまり自分には、人間の営みというものが未《いま》だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾《てんてん》し、呻吟《しんぎん》し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。

  自分には、禍《わざわ》いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負《せお》ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。

  つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨《せいさん》な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快《そうかい》なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を步きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

  そこで考え出したのは、道化でした。

  それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

  自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり、自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。

  その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化の一種でした。

  また自分は、肉親たちに何か言われて、口応《くちごた》えした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂《へきれき》の如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系の人間の「真理」とかいうものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。

  それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子《しし》よりも鰐《わに》よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾《しっぽ》でピシッと腹の虻《あぶ》を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄《せんりつ》を覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。

  人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩《おうのう》は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

  何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空《そら》だ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。

  自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を步き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、

  「それあ、葉ちゃん、似合わない」

  と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て步くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の脚絆《レギンス》を両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以《もっ》てセエターを着ているように見せかけていたのです。

  自分の父は、東京に用事の多いひとでしたので、上野の桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚《しんせき》の者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。

  いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖《てちょう》に書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。

  「葉蔵は?」

  と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。

  何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味《あじわ》い、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり、自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分の所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます。

  自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、

  「やはり、本か。浅草の仲店にお正月の獅子舞いのお獅子、子供がかぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか」

  欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。

  「本が、いいでしょう」

  長兄は、まじめな顔をして言いました。

  「そうか」

  父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。

  何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐《ふくしゅう》は、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子を自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向に迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。

  そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分は子供部屋で聞いていました。

  「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」

  また一方、自分は、下男や下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目《でたらめ》の曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを焚《た》いて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗《さらさ》の風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。

  自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他《ほか》にも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染《なじみ》で、また、怪談、講談、落語、江戸|小咄《こばなし》などの類にも、かなり通じていましたから、剽軽《ひょうきん》な事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。

  しかし、嗚呼《ああ》、学校!

  自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚《はなは》だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

  自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺《こっけいばなし》ばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺《たんつぼ》にしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を步きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。

  お茶目。

  自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。

  けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡《およ》そ対蹠《たいせき》的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、哀《かな》しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡《まわ》りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。

  必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮《しょせん》、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。

  なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑《ちょうしょう》する人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で[#「お互いの不信の中で」に傍点]、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々《みちみち》、下男たちが嘆き合っていたのです。

  しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晚まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに[#「清く明るく朗らかに」に傍点]生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦《みょうてい》を教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗《な》めずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。

  そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅《か》ぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。

  つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。

  [#改頁]

  第二の手記

  海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉《わかば》と共に、青い海を背景にして、その絢爛《けんらん》たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤《ちりば》めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章《きしょう》にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。

  その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。

  生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親|眷属《けんぞく》全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者《くせもの》が、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。

  自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動《ぜんどう》していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。

  もはや、自分の正体を完全に隠蔽《いんぺい》し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣《うわぎ》を着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。

  その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁《ささや》きました。

  「ワザ。ワザ」

  自分は震撼《しんかん》しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

  それからの日々の、自分の不安と恐怖。

  表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息《ためいき》が出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして步くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晚、四六時中、竹一の傍《そば》から離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於《お》いて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。

  自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑《びしょう》を湛《たた》え、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫《ねこな》で声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。

  その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。

  「耳が痛い」

  竹一は、立ったままでそう言いました。

  「雨に濡れたら、痛くなったよ」

  自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿《うみ》が、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。

  「これは、いけない。痛いだろう」

  と自分は大袈裟《おおげさ》におどろいて見せて、

  「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」

  と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝《ひざ》を枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、

  「お前は、きっと、女に惚《ほ》れられるよ」

  と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。

  しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍《がらん》が崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。

  竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽《かす》かに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気《ふんいき》に対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。

  自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞《むち》とちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒《ちゆ》し難い傷でした。

  女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳《じゃけん》にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。

  女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。

  自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、

  「御勉強?」

  「いいえ」

  と微笑して本を閉じ、

  「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね」

  とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。

  「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん」

  或る晚、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。

  「なぜ?」

  「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」

  いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。

  「そっくり。ロイドに、そっくり」

  当時、ハロルド.ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。

  自分は立って片手を挙げ、

  「諸君」

  と言い、

  「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」

  と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。

  また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、

  「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」

  などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、

  「何か面白い本が無い? 貸してよ」

  と言いました。

  自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。

  「ごちそうさま」

  アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓《みみず》の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。

  また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。

  しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド.ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。

  竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。

  「お化けの絵だよ」

  いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。

  おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一步を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。

  「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」

  自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。

  「すげえなあ」

  竹一は眼を丸くして感嘆しました。

  「地獄の馬みたい」

  「やっぱり、お化けかね」

  「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」

  あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪《ようかい》を確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷《いた》めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、

  「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」

  と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。

  自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具も一|揃《そろ》い持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐《おうと》をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。

  自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。

  また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。

  自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、

  「お前は、偉い絵画きになる」

  という予言を得たのでした。

  惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。

  自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易《へきえき》して、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール.スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧《かんぺき》に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。

  父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成《くすのきまさしげ》の銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。

  自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦《いんばいふ》と質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。

  その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。

  「五円、貸してくれないか」

  お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。

  「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」

  自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱《ほうらい》町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。

  「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」

  堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広《せびろ》を着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。

  自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。

  「僕は、美術学校にはいろうと思っていたんですけど、……」

  「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」

  しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。

  ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑《けいべつ》し、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って步いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。

  しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋《ひ》の絨緞《じゅうたん》が敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇《りんしょく》ゆえでなく、あまり

  《人間失格》读后感(三):是你太懦弱,还是我们太虚伪

  学日语以来,对太宰治的八卦了解多余对他的文字了解,一生多次自杀,牵连身边的妹子为他付出生命,自己却苟延残喘;嗜酒嗜药物,有才华却始终没能自立,终其一生摆脱不了家族的阴影;交友不慎,却没有勇气拒绝,甘愿扮演取悦大家的小丑……

  从这些描述来看,无怪乎太宰治经常被定义为“渣男”““、”胆小鬼”,甚至其作品也很难被日本的家长接受给小孩子看。

  然而,当我最近重新翻开这本小小的集英社原版书,竟不由自主地被太宰的内心独白吸引,行云流水般很快地看完了这个浓缩了其一生的故事。看完,倒也没有很多读者所说的压抑感,只是的确会沉默片刻。

  喜欢太宰治的人会用《人间失格》的最后一段话描述他,“我们认识的叶藏是个坦率诚实的人,要是他不喝酒,不,即便喝酒,也是个神一样的好孩子。”所谓神一样的好孩子,就是如叶藏那般从一而终不背叛自己的心,喜欢了便是喜欢,失望了便是失望,爱了便全力以赴,不爱了便转身告别,他始终像个一直停留在童年的孩子,用最天然的方式来表达自己,不留后路,哪怕赴死。

  这是否是最应该被赞颂的人之存在的姿态?应了当下最火的那句“不忘初心”,于太宰治而言,便是不忘自己之所以是自己的心。

  可结局是我们看到的,即便最后一次自杀他也曾挣扎过,却最终停留在了永远的 39岁,更悲哀的是,所有他身边的女性都不曾有过闪闪发光的幸福,虽然这并非他本意。

  他爱世人,爱到不忍心拒绝任何人,即便是身边最可怕的朋友。他执着追求着纯粹的信任与真善美,所以无法接受女性对他的背叛,甚至于他是致命打击,使他最后走向了毁灭。

  有一千一万个因素造成了这样的结局,世人爱他,也为他辩护,可我想说,即便他代表了世界上那个不存在的我们,我们也无法如他一样生活在颓废与伤害的轮回里。

  太宰之所以伟大,是因为他超越了时代,也超越了国界,直逼人性普遍的弱点,那些我们只有在深夜独自拷问自己时才敢袒露的自己,在太宰笔下,他毫无保留地通过揭露自己展示给世人,让我们自惭形秽。

  我也多想如他那般用尽全力地去坚持自己,去横冲直撞,哪怕头破血流,却又害怕最终得到的是和他一样的结局,一无所有,一片唏嘘,所以最终仍旧只能小心翼翼,步步为营。

  若太宰治多一点点坚强,多一点点抵抗,结局会不会不一样。

  是他太软弱,还是我们太虚伪……

  如果说这两者之间存在着一个平衡,那又应该怎样把握?我们一定会选择利己地平衡,反过来又失衡了,说到底,我也只是个会保护自己的自私鬼,保护自己不受伤害。所以,无论何种情况下,我都不会像太宰那样逃避,更不会像他一样伤害自己。

  活着的姿态,应该是一株与病虫共存努力向上的向日葵,还是向病虫投降任由自己枯萎的玫瑰。

  或许,这不是我们之所以为自己的结果,而是自己之所以为自己的原因。

  你选择了什么,你就是什么。

  摘抄一些喜欢的片段与大家分享:

  1. 说是欲望,并不足够;说是虚荣,也不足够;若说色欲交杂,仍不足够。连自己也不知道究竟是什么,但人世间的基本,并不只有经济而已,我老觉得还有某种怪异且气氛诡谲的东西存在着,心惊胆战于那股诡谲的自己,虽然能像水往低处流一般,对所谓的唯物论自然而然地感到肯定,但我也无法因此从对人类的恐惧中解放出来,每当睁开眼时面对着嫩叶新绿时,还是感到一股希望的喜悦。

  2. 有个“边缘人”的名词,意指人世间悲惨的失败者、道德败坏者。但我却觉得自己与生俱来就是个边缘人,若是真的在人群里碰上一位被认为是边缘人的陌生人,我一定会对他很和善。这种和善,甚至会让自己到了着迷的地步。

  3.同样的事日日反复,

  只需遵循与昨日相同的惯例。

  倘若避免大喜大悲,

  彻骨的悲伤便不会到来。

  前方路遇挡路之石,

  蟾蜍都会绕路而行。

  那就是我。对我来说,世间不存在什么原谅或宽容、结束或埋葬的问题。我简直比猫狗还要低等,只是蟾蜍,在地上慢慢爬动着。

  4. 如今的我,谈不上幸福,也谈不上不幸。

  一切都会过去的。

  在所谓“人世间”摸爬滚打至今,

  我唯一愿意视为真理的,就只有这一句话。

  一切都会过去的。

  今天是个阴天,如同此刻的心情……

  《人間失格》读后感(四):人间失格。

  人间失格。

  “我过的是一种充满耻辱的生活。”

  这是一篇充满了不安与恐惧,委靡与退缩,费解与绝望的小说。

  情感表露非常之彻底,极露颓废,近至毁灭。

  与其说主角叶藏他自述幼年是一个为了对人类求爱,而采取扮演滑稽逗笑方式以维系保持于人的联系的畸形人,

  倒不如说他实在是一个单纯的孩子。之所以说他单纯,是因为他对世俗惯例所产生的质疑,并且因自己对于抑制内心的不安以及对他人行为不解的恐惧发现了极为有效的“招数”而欣喜若狂。

  于是,他开始热衷于将自己陷于“可悲小丑”的境地。于他,他满足于自己的高超演技,并成功的用这个方法“骨子里”的区别了他与人的相似。为此,几近疯狂。

  但是,在我看来,他依然在欺骗,欺骗读者。<他,表面是人;他,骨子里还是人。>估计这是他最不想要听到,并且觉得是人生里最失败的判词吧。

  他说,缺乏力量在喜欢与厌恶其间择取其一,这无以名状的痛苦是造成了他“充满耻辱的生涯”的源泉。

  因为他那彻底的并刻意的“虚伪”,让我顿觉怪诞。这是怎样一个缺乏安全感并自我“嫌恶”的孩子,他恐惧的是结果,并拒绝一切会对自身招致伤害的过程,

  他拒绝诉诸于任何人,保持沉默,抛弃反抗并深刻了解这是其他人乘虚而入的突破口。

  “在我看来,倒是那些彼此欺骗,却清冽而开朗地生存着,抑或是有信心清冽而开朗地生活下去的人,才是令人费解的。人们最终也没有教给我其中的妙谛。或许明白了那些妙谛我就不再那么畏惧人类,也不必拼命提供逗笑服务了吧。或许也就犯不着再与人们的生活相对立从而体验那种每个夜晚的地狱所带来的痛楚了吧。”

  在现世,我偶尔也会为此苦恼并疑惑。但是,人类真的作为一个奇妙的存在,相互的联系,虽不能如叶藏所想的应该那样纯粹,但是,无负罪感的欺骗确实需要靠人的天赋,而非一个定义为“人”的要素存在。

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  “对人感到过分恐惧的人,反倒更加迫切地希望用自己的眼睛去看更可怕的妖怪;越是容易对事物感到胆怯的神经质的人,就越是渴望暴风雨降临得更加猛烈。。。”

  “绘画大师利用主观力量,对那些平淡无奇的东西加以美的创造,虽说他们对丑恶的东西感到恶心呕吐,却并不隐瞒对它们的兴趣,从而沉浸在表现的愉悦中。换言之,他们丝毫不为别人的看法左右。我从竹一那儿获得了这种画法的原始秘诀。”

  叶藏畏惧人类,是因为他发现自己与人的差别。但凡天下,异类的存在总会伴随恐惧产生。因此,他找到了同伴,那些勇敢地描绘出“妖怪的自画像”的印象派画家们。

  他的一生,有将两句话视之为预言:

  “你呀,肯定会被女人迷恋上的!

  “你呀,肯定会成为一个了不起的画家呐。”

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  “有一个说法叫做<见不得人的人> 。就是那些人间悲惨的失败者、悖德者。我觉得自打一出生我就是个<见不得人的人>,所以一旦遇到人世所谤的同类,就不由分说变得善良温柔了。这样的<温柔>足以令我自己如痴如醉。”

  手记2所描述叶藏的青年的社交与情感生活,让我不由的用4个字来形容:作茧自缚。

  也许和我有相似之处,因而非常能够了解这一种行为的无奈和与之带来的挫败。

  他视女人的恩惠为"威胁",不断的逃离与胆怯,竭力避免介入人与人之间的芥蒂。

  无力感,屈辱感,又逼迫他走向了“殉情自杀”的道路。

  我总觉得,叶藏的“殉情”自杀到底该说成殉情“自杀”,我很是怀疑,他对常子的感情。。。所谓不谋而合的去死,也许来的更加体贴。

  不幸的是,“女人死掉了,我却得救了。 ”

  ============================

  “蟾蜍。

  (这就是我。世间对我已经无所谓容忍与不容忍,埋葬与不埋葬了。我是比狗和猫更劣等的动物。蟾蜍。只会趴在地上悉索蠕动的蟾蜍。) ”

  手记3依然描述着他作为感情被动方所处的卑贱地位,他的再婚,他的酗酒,他的妻子,他的狗友,他的嗜毒,他希望“去一个没有女人的地方。”然而,服用巴比妥酸时的胡言乱语终于化作了现实:精神病院。

  “我已丧失了做人的资格。

  我已彻底变得不是一个人了。

  我已完全变成了一个废人。 ”

  “对于我来说,如今已经不再存在着什么幸福与不幸福了。

  只是一切都将过去。

  在迄今为止我一直痛苦不堪地生活过来的这个所谓“人”的世界里,唯一可以视为真理的东西,就只有这一样。

  只是一切都将过去。

  今年我才刚满二十七岁。因为白发明显增多的缘故,人们大都认为我已经四十有余了。”

  写到这里我一直没有提到在他人生中无关痛痒的狗友,掘木。这是一个表面有着“人性”,但却实为拙劣的人类。虽然表面与叶藏极为相似,却又有着本质的区别。

  叶藏生之为人,无论他的想法,做法,说法都揭示了他的“人性”,然而,他拒绝将其视为“本性”,因而造就了如此的精神悲苦。

  我非常欣赏太宰治用开篇描述三张照片的手法,接之后的三篇手记与之对应。

  人间失格,如果真的一个人丧失了作为人的资格,在叶藏心中,则是极大畏葸,但在我眼中也许并不是全为不幸。而我信奉的人生真理也是“一切都会过去”。

  这是一篇非常深刻的小说,发人深省,社会人的异化问题非常突出。但我认为无须过于追求大同的幸福观,小说毕竟有夸张的写法,虽能理解,但我绝不赞同自杀的行为。

  很遗憾,这也是作者的绝笔之作,太宰治最后因对人生感到绝望而投水自杀。

  【太宰治(だざい おさむ、明治42年(1909年)6月19日 - 昭和23年(1948年)6月13日)日本小说家、作家。

  《人间失格》是日本著名小说家太宰治最具影响力的小说作品,同时也是糸色望(注:《再见!绝望先生》)老师日常生活必备的读物之一。《人间失格》(又名《丧失为人资格》)发表于1948年,是一部自传体的小说。太宰治巧妙地将自己的人生与思想,隐藏于主角叶藏的人生遭遇,藉由叶藏的独白,窥探太宰治的内心世界,一个“充满了可耻的一生”。在发表这部作品的同年,太宰治就自杀身亡。】

  《人間失格》读后感(五):人间失格

  漫画的开头会令你认为是本对心理描写很黑暗的小说,犹如伊藤润二的轻恐怖漫画一样,黑色放大镜而已。

  特别是前半段,男主的整蛊造怪,误入左派组织,好像是人生的讽刺喜剧一样。

  无奈,后半段太沉重了,我实在不想回忆。阖上后,我只能反复催眠自己,这只是一个低概率的事件,没有有一个倒霉鬼是可以将那么多惨事叠加在自己身上的...

  我想,对于度娘说的关于作家本人的种种,没通历史,没旅居日本的人,可能很难理解,最后落得看完沉郁难受一整天。而漫画,对于整个他人生的概况以及每种事件的发生走向,会更流畅。

  漫画的刻画真可谓入木三分(吐槽:够老派了)。他那种发自心底的伪装,笑得打皱的眼角,真如某部小说的描述“是西装里的皱褶都含着笑,只是显得疲乏了。”

  场景2,他进入了左派组织被逼问对于日本财团的看法时,由于走神只能顺应时势天才地编出,附和组织看法的论点。然后大家都哄堂大笑,非常满意他这个新成员时。画面非常天才地设计成,他的背影是空洞的,透视了每个左派成员笑开花的脸容。此时男主是彻底回不过神来的,他又成功地伪装成一个顺应社会的“普通人”。

  描述他吸毒后幻觉的画面,整条街上都是血泥沼,男主希望挣扎戒毒又趴下。

  描述他受制父亲(可见日本人的宗族观念),他以被挟制的木偶出现。

  描述他憎恨自己当时软弱没能救到受害妻子时,用放大镜去看他朋友那种似喜非喜的面容(其实可能是救赎自己的臆想)。

  画面极大丰富了人物的内心,有着电影视角一样的震撼,而且更低成本呢。

  由于天赋异于成人,譬如他吸引女人怜爱甚至病态供养的英俊外貌,触笔能画的绘画技巧,内心黑暗却能画成

  “暴躁跳仔”受欢迎的儿童漫画。

  他有数次能被拯救的机会,却又一次次沉沦...包括在酒吧打工的日子,和妻子共住的时光,还有宣誓戒毒的时候。而现实和心魔,包括我们常人所说的低概率事件,一一重叠在身上,好比层层的茧,挣脱又失败。

  后面的剧情不展开讨论,甚至我怕写了也会作噩梦。 我甚至想,天才总是多苦难,他不过是留下一本暴躁跳仔的儿童漫画书,和一堆不知名的色情漫画插图,和他精神丧乱家破人亡被社会遗弃,引申到作品主题--人间失格,失去做人的资格而言,是不值得的。

  晚上度娘一下, 才发现太宰治是和三岛由纪夫齐名的日本文学史巨匠。才醒觉,漫画能柔化他为何堕落的一生,却还是温柔怜悯地降低了他在文学史(or儿童漫画?哈哈)贡献的格调。

  漫画值得一看,只是压抑沉郁的黑色蝴蝶,好像和他一同曾经自杀的扬羽一样,传奇,堕落,黑暗,自暴自弃,又被上帝以极低概率事件的罪恶石头重重踩了数十脚后,终于不得翻生。成为一个自杀者。

  最后用男主角好朋友所说过的话,你这样做,社会不会放过你。男主角心里反问,社会不就是等于你吗,就是等于你个人的看法吗。不受束缚,历经磨难的黑蝴蝶,以自杀才能救赎自己的痛苦一生。

  《人間失格》读后感(六):人间失格

  漫画的开头会令你认为是本对心理描写很黑暗的小说,犹如伊藤润二的轻恐怖漫画一样,黑色放大镜而已。

  特别是前半段,男主的整蛊造怪,误入左派组织,好像是人生的讽刺喜剧一样。

  无奈,后半段太沉重了,我实在不想回忆。阖上后,我只能反复催眠自己,这只是一个低概率的事件,没有有一个倒霉鬼是可以将那么多惨事叠加在自己身上的...

  我想,对于度娘说的关于作家本人的种种,没通历史,没旅居日本的人,可能很难理解,最后落得看完沉郁难受一整天。而漫画,对于整个他人生的概况以及每种事件的发生走向,会更流畅。

  漫画的刻画真可谓入木三分(吐槽:够老派了)。他那种发自心底的伪装,笑得打皱的眼角,真如某部小说的描述“是西装里的皱褶都含着笑,只是显得疲乏了。”

  场景2,他进入了左派组织被逼问对于日本财团的看法时,由于走神只能顺应时势天才地编出,附和组织看法的论点。然后大家都哄堂大笑,非常满意他这个新成员时。画面非常天才地设计成,他的背影是空洞的,透视了每个左派成员笑开花的脸容。此时男主是彻底回不过神来的,他又成功地伪装成一个顺应社会的“普通人”。

  描述他吸毒后幻觉的画面,整条街上都是血泥沼,男主希望挣扎戒毒又趴下。

  描述他受制父亲(可见日本人的宗族观念),他以被挟制的木偶出现。

  描述他憎恨自己当时软弱没能救到受害妻子时,用放大镜去看他朋友那种似喜非喜的面容(其实可能是救赎自己的臆想)。

  画面极大丰富了人物的内心,有着电影视角一样的震撼,而且更低成本呢。

  由于天赋异于成人,譬如他吸引女人怜爱甚至病态供养的英俊外貌,触笔能画的绘画技巧,内心黑暗却能画成

  “暴躁跳仔”受欢迎的儿童漫画。

  他有数次能被拯救的机会,却又一次次沉沦...包括在酒吧打工的日子,和妻子共住的时光,还有宣誓戒毒的时候。而现实和心魔,包括我们常人所说的低概率事件,一一重叠在身上,好比层层的茧,挣脱又失败。

  后面的剧情不展开讨论,甚至我怕写了也会作噩梦。 我甚至想,天才总是多苦难,他不过是留下一本暴躁跳仔的儿童漫画书,和一堆不知名的色情漫画插图,和他精神丧乱家破人亡被社会遗弃,引申到作品主题--人间失格,失去做人的资格而言,是不值得的。

  晚上度娘一下, 才发现太宰治是和三岛由纪夫齐名的日本文学史巨匠。才醒觉,漫画能柔化他为何堕落的一生,却还是温柔怜悯地降低了他在文学史(or儿童漫画?哈哈)贡献的格调。

  漫画值得一看,只是压抑沉郁的黑色蝴蝶,好像和他一同曾经自杀的扬羽一样,传奇,堕落,黑暗,自暴自弃,又被上帝以极低概率事件的罪恶石头重重踩了数十脚后,终于不得翻生。成为一个自杀者。

  最后用男主角好朋友所说过的话,你这样做,社会不会放过你。男主角心里反问,社会不就是等于你吗,就是等于你个人的看法吗。不受束缚,历经磨难的黑蝴蝶,以自杀才能救赎自己的痛苦一生。

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